期待しない喜び
例えば、美味しいと評判のお店に行ったとして、それで評判通り美味しかったとします。
その状況で感動するには、想像を超えて美味しくなければ、感動までにはいかないと思うのです。
面白い話をするのに「昨日面白いことがあってね」ってハードルを上げてしまって話しても、
感動するほどの面白さになりにくいと思うのです。
何が言いたいかというと、思い出に残るほどの感動っていうのは、
期待していない場面で、思わぬ出来事があったり、美味しいものを食べたり、偶然に人と出会ったりなど、
スポーツが感動できるのも、筋書きのないドラマだからこそ、感動があると思うのです。
それなのに、はじめから大体の状況なり、評判なり、シナリオなりが分かってしまっては、
脳はその時点で洗脳的なイメージで向き合うことになるので、なかなか感動しづらくなってしまうと思うのです。
人は、どれほど感動が多くある人生を送れるかが、幸せの評価基準としたならば、
そういった情報や期待を持っていない状態で、ふらりと美味しいお店に入った方が、
感動する確率が高くなると思うのに、そういった思考にならないってなんでだろう。
それって感動することより、失敗することや傷つきたくないっていう方が勝ってしまっているからではないだろうか。
評判がいいからこの本を読むとか、映画を観るとか、そのお店に行くっていうのは、
人生においての感動を、自ら減らしている行動のように思うし、評判のお店に行って、評判通りの美味しさであっても、
あっさりと記憶から通り過ぎてしまう出来事になってしまうように感じます。
自身が、感動をする人生を送りたいのか、失敗をしない人生にしたいのか、それによって変わってくると思うけど、
でも体はいつも感動させたいと思って行動を起こさせようとしているように感じます。
それには体の反応を信じるっていうのが大切になると思います。
映画のシナリオと同じで、一旦落としてから最後に盛り上げて行くといったように、
期待しない状況になるまで落としてから、仕方なくそこに行く羽目になった状況まで用意してから、
大どんでん返しを送るといったシナリオを描くのです。
それには、一旦落とすことが必要になる訳です。
それを一度、二度と、期待が外れるまで体は何度でも同じ状況を演出するのです。
そうやって期待が外れたところでクライマックスを用意するのです。
なのにはじめから美味しいという評判のお店に行って、満足することを繰り返していては、
いつまでたっても、舌ばかり肥えてしまっては、感動できる状況になってこないと思うのです。
魂はその体に宿っている以上、喜んでもらいたいと思っているのです。
でも情報や欲や知識によって、感動しない、いや感動できないリズムへと、自らで進んでしまっているのではないだろうか。
人間の思考は、多くで役に立つ存在かもしれないけど、多いにして感動させない行動にさせてしまうものでもあるように感じます。
人間の思考を上手に使ってあげれるようになると、もっと沢山の感動が訪れるようになると感じます。
幸せは感動の数に比例すると思います。
知識や情報に頼り過ぎない生き方と流れに身を任せて動く習慣と、
人間の思考は自然の力には敵わない、自分に期待しないっていう心がけと、
体を労り、どんなことがあったとしても体を信頼するという思いが、感動というドラマを演出しやすくなると感じています。
最後に一言。
失敗や傷つく出来事が多いと感じる人は、すぐに期待してしまう、もしくは期待したいと願う人に多いように感じます。
要するに自惚れやすい人に多いと感じます。
期待してハードルを上げてしまうから、体は感動させたくて、期待が外れるまで何度も失敗させたり傷つけてしまう事をするのではないだろうか。
流れや直感に従って行動ができる人は、自分の思考より、自然の力の方を優先するからこそできる行動のように感じます。
感動する出来事が多い人ほど、いい意味で自分の思考を信用も期待もしていないからこそ、感動が訪れやすいのではないかと感じています。
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